光一ろうさまへ
お元気ですか 母ちやんは元気です
ちかごろずい分あつくなってきましたね
からだをこわしませんか 母ちゃんは心ぱいです
あつくてのどがとうらなくてもたくさん食べるんだよ
れんたい長さんのはなしをよくきいて お国のためにはげみなさい
なかなか光一ろうにあえないので母ちやんはさみしいです
玉にはかえってきてください
そろそろ身をかためて、まごのかおでも見せてくれれば母ちゃんはあん心です…
ここまで読み進めて、光一ろうこと田中光一朗少尉は手紙を眺めるのをやめて天を仰いだ。
田中の実家はある歓楽街近くの下町である。
父親は常に飲んだくれては外に女を作り、たまに帰ってきたと思えば母親や自分を殴る。
「そんなつまらねぇことを」と父親に教科書を捨てられながらも、しかし母親や学校の先生に褒められるのが嬉しくて勉学を励んで育った。
光一朗少年は、ある日殴られた母親が声を漏らさず涙を流しているのを発見して、絶対に父親のようにならないぞと誓った。
思えばどのくらい母の顔を見ていないのだろう?
亭主に殴られながらも歯を食いしばって自分をここまで育て上げた強い女性。いつでも自分を庇ってくれた唯一の味方。初めて陸士の制服を着た時に自分よりも喜んでくれた存在。母は田中にとってかけがえのない人間だった。
会うたびにその背中が小さくなっているような気がする。そう気づいたのはいつの正月だっただろうか。
その頃から母親の変化が辛くてなかなか帰る気にはならなかったが、決定打はある一言だった。
「そろそろ身を固めて安心させて欲しい」……それは苦労してきた母親の嘘偽りのない親心だったが、いやそうだったからこそ、心を揺さぶり、田中の罪悪感はいたく刺激された。
そして今、この時間をかけて書いたであろう拙い手紙が田中の普段は忘れている常識の部分を揺らしていたのであった。
小さくため息をつき、眉間に手をやる。
そこで予想外の声が聞こえてきた。
「貴様もそんな顔ができるんだな」
心底意外そうな顔をした佐々木であった。
「お前は俺のことを何だと思ってるんだよ」
言うまでもないだろうという顔をした佐々木を見て、田中のため息はますます深くなる。それを見た佐々木の目には少しいたずらっぽい色さえ浮かんでいた。
(お前こそ「そんな顔ができるんだな」、だよ)
心の中でぼやきながら、手紙を丁寧に畳み、胸のポケットに大切にしまう。
そして佐々木に向かい直って問いかけた。
「なあ、お前って結婚とかするの?」
「面倒だが、しないわけにはいかないだろう」
先ほどと打って変わって真面目そのものの顔である。
当たり前だ、と佐々木は続けた。
「妻を娶るのも国を守る軍人の務めだ」
ハア、そうですか。確か佐々木って長男だったっけな。
佐々木の「硬派な軍人の模範解答」そのものの返答を聞いて田中は内心三たび目のため息をついた。
「お前って武士か何か?」
「貴様に常識がなさすぎるんだ」
ぴしゃりと言うだけ言って、佐々木は軍靴を鳴らして去っていく。
「まったく……」
田中はため息混じりの声を漏らした。
胸には手紙の小さな重み。
それをぽんと叩いて、それから軍帽をかぶりなおす。
まるで何もなかったかのような人のよい軽薄な笑みを浮かべながら。
—-『硬派でエリート軍人の俺が遊び人ごときに翻弄されるわけがない!』閑話「手紙」終わり
2025.03.20 ver.1.0